何故人を殺してはいけないのか?という問いに対する答え

話題になってたのでちょっと書いてみる。
 
社会が維持できないから。以上。
 
このことに関してはこれ以上の理由はないと思う。
 
まず、前提として人間は社会的な動物だということがあります。
共同体を作りその中で生活を営む訳ですね。
1人で生活してる人も、住まいや電気水道なんかのインフラ、食べ物とかは他の誰かが作ったものだということを考えると社会の一員だと言えます。
で、その共同体は維持もしくは発展させようとします。
より便利にだとか、より豊かにとかですね。
縄文時代の石器とかも便利さと豊かさを求めた結果できたものですし。
 
便利さや豊かさの向上=社会の発展とすると、発展するためには構成員の生命や財産の安全が保証されていなければなりません。
みんな美味しいご飯を食べて、あったかい服を着て、快適な家に住んで、家族や友達と楽しく過ごしたいです。
その為に労働力や知識や頭脳なんかのリソースを所属する共同体に提供し、恩恵をみんなで受けるというのが理想的な社会です。
 
それが命の価値が低い社会だと、社会リソースの多くが生命と財産の安全の為に費やされてしまいます。
財産を持っても殺されて奪われる可能性があるような社会では、そもそも財産を持とうとはしなくなるでしょう。
 
殺されると悲しいとかいう感情とか現在の倫理感が先ではなく、安定した社会生活を担保し社会を維持発展させていく為に必要だったので、「命は大事なもの」という価値観が作られたという風に考えるべきでしょう。順番が逆なんです。
自分が殺されたくないから、自分は人を殺さないとかっていうのも、突き詰めれば今の生活を維持したい。つまり今の社会を安定させたいということになります。
 
「社会」が最優先の価値観においては、時に個人の生命が後回しにされることは珍しくありませんでした。
戦争状態とかですね。
戦争じゃなくても科学が発展していない時代には、自然に対して豊穣を願いお供えとか身代わりとかとして共同体から人が差し出されていたりもしました。
 
今は幸せなことに、日本や他の多くの国は安定して豊かな社会になっています。
それらの社会に属する人々の多くは、現在の豊かな生活が続くことを望んでいるはずです。
その為には「殺人」等の社会の安定を乱す要素があってはいけません。
 
つまり安心して社会生活を営む為の装置として、みんなが望み「命は大事なもの」「殺人はいけないもの」という価値観が出来上がったということです。