All You Need Is Killに見る日本とアメリカのキャリアに対する価値観の違い

映画版のAll You Need Is Killをこの前見て来たんですよ。
 
いろんなところで原作小説と映画版の違い自体については言及されてるので、ここでは触れません。
 
僕が思ったのは、こんな娯楽作品でも文化的な違いが現れるのかということです。
 
以下ネタバレなので読む人は注意。
 
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その違いというのは、「ステージをクリアしたら次に進む」ということです。
 
原作版では物語を通して舞台は変わりませんでした。
映画版では、ラスボスであるギタイが最初の戦場にはいなかったというのもあるけれど、結構サクサクといろんな場所に戦場を移すんだよね。
 
原作版ではケイジはループを繰り返して無双状態になっていて、戦闘という面においては安心して見ることができる。
他にも、漫画版だけど覚悟を決めて成長してるケイジの雰囲気に軍曹が気圧されるみたいなシーンもあった。食堂でのケンカのシーンとかも。
いかにケイジが強くなったのかということを、基地内っていう同じフィールド上で見せてるんだよね。
 
それが映画版だとケイジの成長シーンは結構アッサリと流されてた。最初の戦場で無双状態になるのは同じだけど、そこでのケイジの強さっていうのを小説版ほど尺を割いて表現していなかった。一応補足しとくとこれは尺とかシーンをどれだけ割いてるかという話で、しっかりとケイジの成長は画面上で表現されていたよ。
で、最初の戦場でレベルをMAXまで上げたケイジは、別の戦場に移ります。そこは新しいフィールドなので攻略の仕方が分からないので、ピンチ状態に陥ります。農場のシーンですね。そこをクリアするとルーブル美術館という別のフィールドに移ります。
 
一連のシーンの中でのケイジの「次のステージに行こうか」的なセリフがとても印象的でした。何か違うような気もするけど、ニュアンスは合ってるはず。
これって、要はある場で経験値を積んだら、すぐに次の場にステップアップするという価値観の現れだと思うんですよ。
同じ原作でありながら、日本版とアメリカ版で農耕民族的な価値観と、狩猟民族的な価値観に従って全く違うように料理されている。
終身雇用で同じ会社にいるのと、経験とスキルを積む毎に会社を移っていくという、日本と欧米の価値観の違いが娯楽作品でも表れてるというのは非常に興味深いなぁと思いながら映画を見てた訳です。
 
ちなみに僕はこの映画版の原作からの改変は肯定派です。
ハリウッド的な変更を加えながらも、原作の持ち味は生かしてるという非常に良い映画化だと思います。
 
ただやっぱりもう少し長い尺で、ケイジの無双シーンを見たかったなと思うのは日本人的な感覚なんですかね。